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裏返しにしたトランプを透視することができるか?

裏返しにしたトランプを透視することができればきっと億万長者になれるでしょう。
カードゲームと呼ばれるものであればなんでも中身を透視できるので自分が有利なようにゲームが進んでいきます。

もしかするとどこかにそんなすごい能力を身につけた人がいるのかもしれませんが、普通の人にはそんな能力はありません。
カードが裏返っていたら中身は見えないものです。

他人とのコミュニケーションも同じようなものです。
誰も自分のことを理解してくれないと嘆いている人の多くは、ちゃんと自分の気持ちを表現しようとしていないことが多いように思います。

自分の気持ちは黙っていては相手には伝わりません。
完璧に理解してもらうことは不可能にしても伝えようとしなければ伝わらないのです。
裏返ったカードを当ててくれと言われても困ってしまいます。

裏返ったカードも小出しにでも情報を教えてもらえればだんだんとわかってきます。
カードは男性の絵柄である、文字は赤色である、ハートの文字があるなどと少しずつ開示されていくとかなりのだんだんとカードの中身がわかってきます。

自分の気持ちは相手からは見えないものです。
透視ができるエスパーでないとわからないですが、なんでもこちらの気持ちを見抜ける人とは逆に付き合いたいとも思わないはずです。

一般人と付き合う以上、自分のことを理解してもらおうと思ったらこちらから伝えようとする最低限の努力が必要なように思います。

相手が理解してくれないのではなく、自分が伝えようとしていないのです。




他人が好きな服を着て後悔がないか

自分が好きな服を着ている男性が友人から「その服ダサいね」と言われたとします。
お気に入りの服だったけども、言われてみればダサい気もするので友人が勧めるファッションに合わせることにしました。

自分に似合うかどうかわからないながら友人に勧められた服を着ていると、今度は別の友人から「その服似合ってないよ」と言われてしまいました。

やはり自分には似合ってなかったのかと思い直し、その友人が勧める自分に似合いそうな服を買うことにしました。

おそらくこの人は誰かに何かを言われるがままにエンドレスで自分のファッションを変え続けると思います。
彼は自分が好きなファッションをせずに全て他人の意見に流されてしまってます。

ファッションでいうとわかりやすいのですが、ファッションに限らず他のことでも自分の判断ではなく他人の判断に流されてしまってることはよくあると思います。

食べ物、住む場所、進学、就職、恋愛などなど
多くの場面で油断すると自分の人生を生きるのではなく、他人の人生を生きてしまってしまうことになります。

自分は本当は何がやりたいのかをしっかりと考えておかないと、いろんなファッションをさせられた挙句に自分がしたいファッションが何もできなかったということになってしまいます。

他人からの評価はamazonのレビュー

他人からの評価はamazonのレビューのようなものです。
amazonのレビューは誰でも好き勝手に商品に対してのコメントができますが、100パーセント良い評価などあり得ないはずです。

ネットで買い物をするときにレビューはある程度参考にしますが、それをそっくりそのまま鵜呑みにしてしまうと買い物に失敗してしまいます。

ネット上でレビューする人とは興味関心や好みも違いますからあくまで参考情報とするだけです。
ネットの情報など玉石混交ですからそっくりそのまま鵜呑みにしてしまうと判断を誤ります。

これと同じように自分の身近な人の評価に関しては過剰に反応して自分の判断を他人に委ねてしまうと同じく失敗してしまうことがあります。

他人からの評価もamazonのレビュー同様に参考情報としては大切ですが、自分の判断基準まで他人に委ねてしまうと思考停止してしまいます。

身近な人の評価ほど流されてしまいそうになりますが、そっくりそのまま受け入れるのではなく自ら考えて判断できる習慣を持つことも大切かと思います。

心理カウンセラーを夢見る彼は今日もコンビニでアルバイトをする

心理カウンセラーを夢見る彼は今日もコンビニでレジ打ちをしている。
いや、単なるレジ打ちだけではなく、商品の仕入れから検品までできるお店になくてはならない存在なのだ。
毎日毎日生活をするためにお菓子やらお弁当やらをエロ本やらを買いに来るお客にピッピピッピバーコードを読み込んでいるのである。
そう、彼こそがいつかは心理カウンセラーとなり悩んでいる人を名探偵コナンばりの洞察力をもって解決に導くことで多くの人に喜んでもらえることを夢見ている私の弟君なのである。

もともと裕福ではない家庭で育った彼は私立の大学に莫大な入学金と授業料を叩き込み、心理学部を卒業したのち、晴れてコンビニエンスストアでアルバイトをすることになったのである。
裕福でない家庭で育ったにも関わらず金銭感覚が欠如してしまっている彼は学費は全て奨学金でまかない、未来の自分に借金を返済させるという選択肢を選んだため卒業と同時に莫大な借金を背負い込んでしまっている。
そんな彼の夢はもちろん、心屋仁之助さんなみの超有名な心理カウンセラーとなりたくさんの人の悩みを解決することである。

心理カウンセラー以外の仕事に就くなどあり得ないので大学の学生課からのアドバイスもむなしく就職活動すらも敵前逃亡してのけたのである。
心理カウンセラーになる大義名分を持っているため、就職活動に一生懸命になっている周りの同級生など眼中になかったのだ。

彼はいつも壮大な夢を聞かせてくれる。
「今は子供たちも心が病んでしまっている。そんな子供たちの悩みを解決して夢を見ることの大切さを教えてあげたい」
コンビニにお菓子を買いに来た子供たちくらいしか接点がないくせに、彼は児童心理学にも興味をもつ。
「彼女とスイスに行って壮大な景色を見ながら心理学の勉強をしてみたい」
スイスと心理学がどう結びつくのか意味不明だが、最近彼女に愛想をつかされて三下り半を突き付けられたらしい。
それでも彼はスイスに行く夢を未練たらしく持ち続けている。
スイスに行くためにいったいどれくらいの費用が必要なのかを現実的に計算しようとしない彼の貯蓄額は限りなくゼロに近いそうだ。

そんな彼に会うたびに聞くことがある。
「心理カウンセラーの勉強がんばってる?」
返ってくる答えは極めてシンプルだ。
「今心理カウンセラーになるために人生経験を積んでるところ」
そう、彼にとってはコンビニで人生経験を積むことが心理カウンセラーとなる糧となると思い日々アルバイトに精を出しているのである。

もちろん、コンビニで経験したことが心理カウンセラーとして役に立たないなどとは毛頭言うつもりもない。
しかしながら、本気で心理カウンセラーになりたいと願っているのであれば明らかにやるべきことの優先順位をはき違えてしまっているように見えて仕方がないのである。
きっとロックバンドでメジャーデビューを目指す子供を持つ親の気持ちも似たようなものかと類推して悲哀な気持ちになってしまう。

もしも、本気で目標を達成しようとするならば今の延長線上に狙っている結果があるのかを自問自答することは不可欠といえる。
私もこの逆算思考を身につけることができて初めて狙った結果を達成する精度が高まったように思う。

いつかは富士山の頂上を目指したいと思いつつ奈良県の若草山をうろちょろしているようではいつまでたっても目指す富士山には辿り着くことはできないのである。
富士山の頂上を目指すのであれば、たどるべきルート、必要な道具、登頂者経験談の情報収集など自分のすべての行動が富士山登頂に紐づいていなければならないはずである。

心理カウンセラーになりたいのであれば、一日一日の一挙手一投足が心理カウンセラーになるべき行動にすべて紐づいていなければならないはずである。
コンビニのアルバイトは生活の糧を得るための手段としては必要かもしれないが、行動の一つ一つが目標にリンクしていなければ目標など簡単には達成できるはずないのだ。

自分の一挙手一投足が目標に紐づいているかを自問自答することができれば、目標と相対的に関係ない行動などとっている時間など毛頭ないはずである。

ある日、私は勇気を振り絞り弟に聞いてみることにした。
「あのさぁ、コンビニのアルバイト毎日やってて心理カウンセラーになれんの?」
弟の答えは極めてシンプルである
「そんなことわからん」

こうして第四次反抗期を迎えてしまっている弟からはいつ心理カウンセラーの片鱗が芽生え始めるかの回答はいつまでたっても得ることができないでいる。
子育てというとおこがましいが、弟育てをどうやら失敗してしまったのかもしれない。
もしかするとロト6の10億円に当たるかのごとく奇跡的に心理カウンセラーになれるかもしれないが今のところその可能性は極めて低いといえる。

こうして心理カウンセラーを夢見る弟君は今日もコンビニでレジ打ちをしている。
彼の将来を案じる親族一同は第四次反抗期を終えて彼が然るべき結果を出すための行動をとることを今日も固唾をのんで見守っているのである。

艱難辛苦がない物語は面白くない

仮に自分が有名な映画監督だったとします。
映画を撮影するときに、生まれがめっちゃ裕福、学力も神童と呼ばれ志望校には全て首席で合格、才色兼備で何の不自由もなく幸せに生きることができた主人公の人生を撮影するとします。

題名は「幸せな人生」

幸せを渇望する現代においては題名だけで観に来る人がいるかもしれませんが、おそらくレビューは最悪の結果で終わるでしょう。

最初っから最後まで何不自由なく過ごした人の人生など誰も興味関心を持たないものです。
むしろなんの苦労もなく順風満帆のみの人生だと反感を勝ってしまいます。

撮影する前から120%失敗するのは火を見るよりも明らかではないかと思われます。

多くの人が共感して感動するストーリーって想像を超えるような艱難辛苦を乗り越えてようやく幸せを勝ち取ったというのが定番です。

こうして映画で考えてみると艱難辛苦はストーリーを面白くするスパイスの要素があると言えるのではないでしょうか。

けれども現実の人生に置き換えてみると多くの人は困難を嫌い、順風満帆な人生を選択しようとしてしまいます。

あえて面白くないストーリーを演じようとしてしまうのです。
わざわざ苦労する方向へ身を突っ込んでいく必要はないけれども考えようによっては目の前でぶち当たっている壁は人生を面白くするスパイスかもしれないし後々振り返ったときのネタ作りだったりします。

苦労にぶち当たっているときはスパイスなんて考える余裕なんかないけども、乗り越えて乗り越えて乗り越えまくったその先には面白いストーリーが出来上がってるんじゃないかと考えてみると困難も見えかたが違ってきたりします。

納豆が嫌いなら無理して食べようとしない

他人が求めることに過剰反応しているとどんどん自分を苦しめることになっていきます。
人は社会的動物なのである程度は合わせる能力も必要ですが、何でもかんでも他人の顔色を伺って要求に応えようとしてしまうと自分が潰れる結末を迎えることになります。

他人が自分に対して求めてくることは千差万別なのでいちいちそれに合わせていると自分が疲弊しまくってボロボロになってしまうのです。

自分は納豆が好きではないのに、他人が納豆が好物だからといって他人に好意を持たれようと無理やり納豆を食べるようなものです。

人の好みに合わせてあるところでは納豆を無理やり食べ、はたまたあるところではグリーンピースを無理やり食べ相手の好みに合わせて好きでもないものをいたるところで無理して食べてまくっているようなものです。

自分が食べたいものは何なのか、自分の好きな食べ物は何なのかを自分で決めておかないと好きでもないものを無理して食べてけっきょく自分が好きなものは何も食べれなかったという何とも悲惨なことになってしまいます。

相手の要求はそれはそれで尊重するのも大切なように、自分の要求も同じくらい大切にすべきです。

自分を殺して相手の要求に応え続けることは、自分の要求は他人に受け入れられる価値などないと自己暗示をかけているようなものです。

納豆など食べたくないなら食べたくないと自分の好みを言えるようにして自分自身を尊重してみることも大切かと思います。

街から出なければRPGは面白くない

大人になってしまうと自分ができることとできないことを過去の経験から予測できるようになってしまいます。
予測機能は歳を重ねるごとに強固なものになっていき、始まる前から自分には無理だという結論が導き出されて疑うこともしなくなるのです。

こうして、ある程度経験を重ねた大人は自分が過去の経験から自分にできることとできないことをあらかじめ取捨選択するようになり、失敗するかもしれないことに挑戦することをやめてしまいます。

自分ができる範囲のことをやり続けている状態は、自分が決めた枠の範囲の中でしか行動しないためそこに成長はほとんどありません。

まるで、ロールプレイングゲームで街の中をグルグル歩き回っているようなものであり、外に出ていかないのでそれ以上レベルアップもしなければストーリーも進んでいかないため面白くもなんともない状態になってしまうのです。

確かに外の世界に出てしまうと、安心を手放すことになり危険もたくさんありますが何物にも変えがたい経験値が手に入りこれまでできなかったことがたくさんできるようになります。

街の中で歩き回ることは安心ではありますが、自分ができる範囲のことしかやらないため、いつまでたっても同じような状態が続いてしまいます。

外の世界に出ることと街の中で留まることはどちらが良い悪いということではありませんが、もしも自分の枠を壊してレベルアップしたいと思うのであれば不安を乗り越えて外の世界に出ざるを得ないのです。

安全と成長とはある意味でトレードオフの関係にあり、自分が定めた枠を超えて成長しようと思えば安心・安全な世界から抜け出して枠外のことに挑戦してみることも必要です。

もしも自分が定めた枠の範囲でしか行動できていないのであれば一歩踏み出してみることで枠を壊すことができるようになります。

劣等感は動物園に行くとなくなる

多くの人は多かれ少なかれ劣等感を抱えながら生きている。
かく言う私も昔は劣等感が服を着て歩いているようなやつだった。
いちいち他人と比べては
「俺ってなんてダメなやつなんだ」、「あいつは才能あるよな。うらやましい。自分にもあんな才能があればもっと違った人生歩んでたんだろうな」とか「どうせ自分なんてがんばっても無理だし」なんて数え上げればきりがないほどとてつもないネガティブワードが頭の中をくるくるくるくるジャグリングのごとく回転していたのである。

今思えば劣等感なんてものは全て自分の頭の中で創り上げているものであり、いくらでも解消できるのだが当時の自分は自分が劣っていることが紛れもない事実であり、逃げようのない現実であると錯覚してしまっていたのだ。
事あるごとに他人と比べまくってそのたびに劣等感にもがき苦しんでしまうという脱出困難に見える猛烈なデフレスパイラルに陥ってしまっていたのだが、自分には自分の勝ち方があることに気づいてしまったことからこのデフレスパイラルから脱却することになるのである。

劣等感とはすなわち、ほとんど例外なく他人との比較から発生する感情である。
私たちは幼少のころから他人との比較の上で順位付けされることにより、上位に位置するほど価値があるというような北朝鮮の英才教育ばりの先入観のようなものを刷り込まれてきている。
こうした先入観は妄想、錯覚、思い込み、パラダイムなど表現は違えども確実に私たちの中に存在するものである。
長い年月をかけて刷り込まれてしまった先入観は条件反射的に競争優位に立っているものは絶対的に価値があるものと結論づけてしまうようになっているのである。

つまり、自分が劣等感に悩まされてしまっているということは、ある意味で幼少期からかけ続けている色眼鏡で現実世界を見ていることで発動されるものであり、色眼鏡を叩き潰してしまうことをしなければ、手を変え品を変えエンドレスで発動されるのだ。

他人と比較の上で自分の価値を見出すことはなんら意味がないことはSMAPも「世界に一つだけの花」で声高に熱唱している。
あの歌詞が多くの人に共感され爆発的なヒットになったということは、多くの人は無意識のうちに他人との比較や劣等感に疲弊しまくっているまぎれもない証拠ではないか。
他人に勝ち続けることで劣等感を解消しようとしても上には上がいるためエンドレスの戦いを強いられるのだ。
勝って勝って勝ち続けて最終的に日本の総理大臣になりたいというなら話は別であるが、日本のトップになりたいわけでもなく劣等感に悩まされて苦しいのであれば早々に白旗を上げて訳の分からないレースから脱却してしまえば楽になれるのだ。

けれどもそう簡単に幼少のころから刷り込まれてしまった色眼鏡がなくなるとは言い難い。
その辺に転がっている本を開いてみれば「他人と比べることなく自分らしく生きよう」などと青臭い言葉が無数に転がってはいるけれども未だ無意識のうちに他人と比較してしまう色眼鏡を外すことができず苦しんでいる人は枚挙に暇がない。

他人との比較は無意味という言葉は知っているけれども未だ腹落ちしていないならぜひとも動物園に行ってもらいたい。
人間も動物の一種なので他の動物から教えてもらうことはたくさんあるはずである。
動物園に足を運んでみてそれぞれの動物たちがどんな戦い方をしているのかぜひ観察してもらいたい。
動物園ではウサギはウサギらしくパンダはパンダらしくそれぞれの勝ち方で観客を魅了していることに気づくはずである。
ウサギがわざわざライオンの勝ち方を真似した強そうな素振りは1mmも出していないはずである。
むしろウサギはライオンの勝ち方など眼中にないはずである。
カピバラは終始ぼーっとして観客を魅了しているはずである。
ぼーっとしていることが観客を魅了できる自分の武器であることを先天的に理解しているのである。決してIQの高さで勝負しようとは思わないのである。

こうして頭では他人との比較など無意味だと理解はしているけれどもなかなか無意識のレベルにまでインストールされないというときは動物園の疑似的な自然界から実体験として学んでみることも劣等感を解消する一つの方法である。
まさに体験は知識を凌駕する、もしくは百聞は一見に如かずということを身をもって知ることになる。

わざわざ他人と比較してはちまちま劣等感に苛まれているくらいなら、いっそのこと1,500円の入場料を払ってウサギ先生やカピバラ先生からありがたい訓示を受けてみれば長年悩まされていた劣等感が解消されるのかもしれない。
無用な悩みを延々と抱き続けることはせっかくの限りのある時間がもったいないのである。

自分の価値とまつ毛

自分なんて何の価値もないと思ってるとそれはそれは勘違いも甚だしいと思います。
自分なんて別にいてもいなくても同じなんて思ってるとするなら、それは単に自分の価値が見えていないだけかもしれません。

世間一般でもてはやされているような、才能ないし外見も良くないし頭も良くないしお金もないしと足りないものをあげればキリないけれども、それらは全部自分の存在価値とは全く関係ないものばかりです。

自分の価値は言わば自分のまつ毛みたいなもので意識しなければなかなかそこにあるとは気づかないものではないかと思います。

24時間365日欠かさずそこにあるけれども、意識しなければ無いものと思い込んでしまうのが自分の価値ではないかと思います。

意識して見ても見えなければ見えるようになるまで何年かかってもいいから探せばいいと思います。
それだけ時間を叩き込んで探してみる値打ちは自分にはあるんじゃなかろうかと思うことが大切です。
単に見えていないだけで必ず見つかるはずです。

怒りと万華鏡

怒りの感情をコントロールすることは万華鏡を見ることに似ています。
腹が立って腹が立ってどこにこの怒りをぶつければいいのかってことは人間である限り誰にでも起こります。
けれども感情に振り回されて手当たり次第に怒りをぶつけまくっていると、良いことなど何もありません。

怒りの感情は発生するのは仕方ないこととして、いかにコントロールできるかが重要です。
怒りをコントロールすることは、ちょうど万華鏡を見るような感覚に似ています。

どういうことかと言うと、万華鏡は見方を変えてみればいろんな模様が見えてきます。
万華鏡の中身自体は何も変わらず、角度を変えて見てみるだけで見え方が変わります。
怒りの感情も出来事に対しての見方を少し変えてみるだけである程度怒りの感情をコントロールできるようになってきます。

気が狂いそうなくらい怒っていても、「いやちょっと待てよ」と見方を変えてみます。

腹が立つ出来事そのものは変えられないけれども、その出来事をどう解釈するかは自分次第でいくらでも変えることができます。

怒りの感情自体は自然発生するものとして、その後の解釈は自分次第でいくらでもコントロールできるということです。