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言葉は日光を浴びなければ腐る

「思ってることはちゃんと自分の言葉で言いなさい」
子供の頃によく怒られたものだ。
人見知りで他人には心を閉ざしていた幼少期を送っていた私は、自分が思ってることを表現することが大の苦手だった。

自分の言葉で言えと言われても、そんなことができるならとっくの昔にやっている
できないから困っているのだ。

自分の親にも子供らしく物を言えなかったくらいなので、ましてや他人になんてとてもじゃないが発言できるわけがない。
服を買いに行ってもどっちが好きかという質問にも答えれなかったほどだ。

そんな心の中に大きな闇を抱えていたのだが唯一、自分の頭の中の言葉を表現できていたのが紙の上だった。
自分の頭の中にあるものをひたすら書きなぐった。
いや、紙の上だけでなく小学校に通い始めると授業もまともに聞かずに机の上にひたすら落書きして自分の頭の中にあるものを外に出していた。

大人になってからは社会でも最低限の表現はできるようになっていたが、今になって思うことは頭の中の言葉は外に出さなければ腐敗していくように思う。

陽の目を見ることがなかった言葉は頭の中にそのまま残り、やがて腐臭を放つ。
自分のことをしっかり表現できない引きこもりが増えているのも、ちゃんと頭の中の言葉を外に出さないことが原因ではないだろうか。

言葉もちゃんと日光を浴びなければ腐るのだ。

子供の頃はそんなことを知る由もなく、本能的に頭の中にある言葉を外に出していたのだが大人になってからも頭の中で腐敗している言葉は定期的に外に出さないとある時期から腐っていくように思う。

表現の場はなんでもいいのだが、自分の中にずっと溜め込んで外に出さないでいることは身体に良くない。

頭の中で外にでる機会を与えられず腐りかけている言葉があれば、定期的になんらかの方法で外に出すことを意識すべきではないだろうか。

人間ドックとは車の車検のようなもの

人間ドックとは、車の車検のようなものだ。
車は定期的に検査を受けることが法律で決められていて、車検を通さなければ車道を走ることができない。

車を運転する人は強制的に車を点検に持って行き、どこか悪いところがあれば修理してもらう。
こうして定期的な検査を欠かさずに受けることで、大きな事故を未然にようにしている。

こうした強制力が働かないと、多くの人は定期的に点検になど持っていかないだろう。
まだ大丈夫という根拠のない理由から点検をいつまでも先延ばしにして、大事故に発展させてしまう。

車検という強制力は事故を未然に防ぐ素晴らしいシステムだ。

人間も車と同じように定期的なメンテナンスが必要である。

人間が車と違うところは、自己修復能力を持っているので簡単な修理であれば自分でやってのけてしまう。
こうして自己修復能力を持ってしまっているがために、人間ドックに行くことを先延ばしにしてしまう人が多い。
やはり強制力が働かないと人間はサボってしまう動物なのだ。

修理を先延ばしにしていくと、自分の身体に異変が起きてることに気づかずに取り返しのつかないことになってしまう。

人間ドックとは車の車検ようなものだ。

人は強制力が働かないと問題を先送りしてしまう性を持っている。

こうした問題を先送りさぬよう、人間ドックにもある程度の強制力を働かせた方がいいのではないか。

人間ドックの費用は平均で40,000円くらいかかる。
治療でもないのにそこまでの費用をかけるのは馬鹿らしいと思うかもしれないが、車検よりはるかに安い。

車の点検にお金をかけるが、自分の点検を後回しにするとは如何なものか。

人間ドックとは車の車検のようなものだ。

定期的に点検しておかないと、後で後悔することになってしまう。




過去は変えられないって誰が決めたんですか?

「過去は変えられないけども未来は変えられる」
という格言は誰しも聞いたことはあると思う。

過去に起こってしまった出来事を変えることはできないけれども、未来は努力次第でいくらでも切り開いていくことができるという意味のようです。

確かにそうかもしれないけど、この格言の通りに解釈をしてしまうと過去に起こったことへの後悔や失敗はそのまんま引きずり続けて未来を見ることになってしまう。
だって過去は変えられないし。

過去は変えられないって確かに起こってしまった出来事自体は変わらないけど、出来事の解釈は変えていけると思う。

よくあの辛かった経験があるから今の自分があるなんて言葉を聞くけど、あれこそまさに過去の出来事は変わらないけど解釈を変えることができた良い例じゃないかな。

だから言いたいのは、過去なんて自分次第でいくらでも書き換えれるってこと。

「過去は変えられないけど未来は変えられる」
ではなくて
「過去は変えられるし未来も変えられる」
ってした方が人生楽しいんじゃないでしょうか。

過去も現在も未来も全肯定できるしね。

過去の出来事なんてオセロゲームみたいなもんだと思います。

これまでどれだけ辛い事ばっかり起こっていても、あの経験があったからって言えるようになると過去の辛いことも良い経験だったと解釈できるようになる。

つまりここれまでどんだけ黒ばっかりのオセロゲームでも最後に白を置くと全部白にひっくり返るようなもの。

過去も未来も自分の解釈次第で変えられるってこと思った方が楽しく生きれる。

だから過去は変えららないって誰が決めたんですか?ってこと。
自分次第で過去は変えられる。




人生の目的を知りたくばとにかく走る

マラソンを走ることでその人の価値観が見えてくる。
マラソンは自分との戦いなので、何のために走るのかは朧げながらも自分の中に持っていなければ走りきることはできない。

困難に負けない強い心がほしかったり、
達成感を得たかったり、
周りからの賞賛が欲しかったり、
思い出が欲しかったり、
健康を維持したかったり、
強い肉体が欲しかったり、

人それぞれ走る目的は違うものだが、こうした走る目的は人生においての自分の価値観にリンクしているように思える。

マラソンなどただ走るだけなので自分で走る目的を見つけ出さなければただ単に苦痛を味わうだけである。
人それぞれ走る目的を見つけて、その目的を達成すべくひたすらゴールを目指す。

人生も似たようなものではないだろうか。
人生の目的など自分で決めるものであって、何のために生きるかは人それぞれ違うものだ。

マラソンも人生も自分で目的を決めてゴールを目指すという意味では同じようなものではないか。

もしも、自分が生きる理由がわからんと言うならマラソンを走ってみれば分かるかもしれない。

何度も繰り返し走っているうちに自分は何のために走っているのかがぼんやりと見えてくる。
自分の価値観が浮き彫りになってくる。
自分の価値観が分かってくると人生を生きる目的も見えてくる。

自分の価値観を知りたければとりあえず走ってみるといい。

まさにマラソンは人生の縮図なのだ。


緑色の長い食べ物といえばキュウリ

基本的に脳はサボりたがるので、たいていのことは過去の経験からはじき出した思い込みで判断します。
この思い込みというのが厄介なもので、意識しなければその思い込みが正しいものだと誤認してしまいます。
過去の経験から導き出された思い込みは、ときに自らの首を締めることになってしまいます。

思い込みとは例えば、緑色の長い食べ物といえばキュウリと自動的に判断してしまうもので、他にウリだったりほうれん草だったり菊名だったりいろいろあるのにキュウリしかないと判断してしまうようなものです。

こうした思い込みはときに正しいけども、他の選択肢を見逃してときに誤った判断を導き出すことになります。

何か物事を判断するときに最悪のケースばかり想定するのも思い込みです。
最低でも、最悪のケース、最高のケース、中間のケースといった三パターンくらいは想定してもいいものです。

思い込みで判断する癖があるということを知っておくだけでも、考える習慣は身につきます。



抜け出せない中毒症状

マジでこれ以上やると廃人になってしまう。
自分でも驚くほどの中毒症状に襲われ、そこから抜け出せずにいる。
膨大な時間がそいつにうばわれ、何度も忘れようとするけど一度脳が覚えてしまった快楽はまた新たな快楽を求めようとする。

もう抵抗することを諦めよう。
僕はテレビのリモコンを押した。

画面からは自分のみたい映画やドラマがあまりにも魅力的に並んでいる。
まるで自分が今観たいものを見透かされているかのように。
しかもどれだけ観ても年間でたったの3,900円。
amazon primeビデオだ。

こいつを自宅のテレビに導入してからは、テレビの吸引力が半端ない。
他にやらなければならないことが山ほどあるにもかかわらず、何度も中毒症状を発症している。
本当にこのままではダメ人間になってしまう。

でも、amazonprimeビデオが繰り出す魅力的なコンテンツに完全に虜になっている。
もうハートを鷲掴みにされている。

明日までに用意しておかなければならない仕事がまだ残っている。
それでもまた僕はamazonの誘惑に負けてしまう。
まるで覚醒剤の中毒から抜け出せないかのように。

今日もまた貴重な時間を使ってしまう。
自分はamazonの呪縛から抜け出せないのかと思うのだが、それでもこれだけ楽しめるのだからと自分に言い聞かす。
本当にamazonはすごい。

のび太は出木杉くんにはなれない

のび太はのび太であり、出木杉くんになろうとしても無理なのだ。
のび太は勉強が苦手で運動音痴で、ジャイアンにいじめられるとすぐにドラえもんに泣きつく。
そんな頼りないのび太であるが、人の気持ちがわかり他人が悲しんでいるときは自分も悲しみ、他人が喜んでいるときは自分のことのように喜ぶ。
思いやりのあるキャラクターだ。

出木杉くんのように勉強はできないが、思いやりと優しさを持っている。

のび太と出木杉くんのどちらに好感を持つかといえば、おそらくのび太のほうではないだろうか?
しずかちゃんものび太の優しさに惹かれたのではないかと思う。

けれども私たちはどういうわけか、背伸びして自分のことを賢いように振る舞おうとしてしまう。
そう、本来はのび太のくせに無理して出木杉くんになろうとしてしまうのである。

変に賢く見せようとしてカッコつけようとしてしまう。
それで出木杉くんになれたとしても、やはり好感を持たれるのはのび太のほうなのである。

どうせ背伸びしても出木杉くんになれないのなら諦めてのび太になってしまえばいい。

賢くなくても運動ができなくも思いやりがある人の方が好感を持ってもらえる。

無理してカッコつけなくてもいいのである。

あいつは性格悪いと言う前に

「あいつ性格悪いよな」って言う前にもう少し掘り下げて考えてはどうかと思います。
性格悪いって言葉で片付けてしまうとその人を全否定するようになってしまいます。
簡単に全否定のレッテルを貼るのではなくその人のどこを見て性格が悪いと判断しているのかをみていきます。

そうすると、恐らくはその人がとった行動、もしくは発言のどちらか二択で性格が悪いと判断するに至ったのではないでしょうか。

もしも、ある種の行動で性格が悪いと判断するなら、悪いのは性格ではなくその人の行動習慣です。

もしも、ある種の発言で性格が悪いと判断するなら、悪いのは性格ではなくその人の思考習慣です。

つまり、その人本人が悪いと言うよりかは習慣が悪いと考えるといくらでも修正が可能になります。

パソコンで一部のバグが発生すると何度も同じ現象ご起きますが、修正すると二度と起きなくなります。

習慣も同じく、修正していくことで改善できます。
もしも、他人の行動や発言のバグが気になるときは自分もそのバグを持っている可能性だってあります。

「あいつ性格悪い」と決めつけて終わりではなく、もう少し何が自分に引っかかるのか掘り下げて考えてみてもいいと思います。

コミュニケーション能力の偏差値は?

自分のコミュニケーション能力の偏差値が70以上と自信を持って宣言できるなら、きっと人間関係に恵まれた良い人生を歩んでいることと思う。
学校教育では、偏差値という概念でさまざまな学力が目に見える数字にて評価される。
国語なら国語の偏差値が、数学なら数学の偏差値が示され、自分の立ち位置を見て取れる。

けれどもコミュニケーション能力に関しては自分の偏差値がどの程度なのかを知ることができない。
人間が生きていく上では、国語よりも数学よりもコミュニケーション能力の方が重要であり教育すべきものではあるが偏差値という極めて具体的な数字で示すことは不可能なのだ。

人とのコミュニケーションは適当に言葉を交わしていれば成立してしまいそうに見えるが、その能力には決定的な違いがある。
偏差値30の人もいれば70の人も確実に存在している。

目に見えて測ることのできない能力だから、能力の伸ばし方すらわからないことも多い。

憶測ではあるが、コミュニケーション能力の偏差値が高い人は人と接するときの気持ちの入れようが違うようである。

適当に聞き流すのではなく、本当に一言一句相手の立場になって話を聞き、そしていかに相手に貢献する話ができるかを考えている。

英語にリーディングとリスニングがあるように、コミュニケーション能力にも聞くと話すという分野が存在する。

コミュニケーション能力の偏差値はあくまでも自分の物差しでの判断になるが、出会う人出会う人との聞くと話すのコミュニケーション分野にて比較相対が可能である。

偏差値70となるまで会う人会う人と比較相対することで修正を繰り返し、自分の中での偏差値70を目指すこともできる。

まずは伸ばしてみようと思わなければコミュニケーション能力は伸びようがない。伸ばしてみようと思うことで初めて他者との比較相対が起きるようになるのだ。



ヒーローになる準備ができているか?

俺って何でこう頑張っても頑張ってもうまくいかないんだろう?
勉強やっても物覚え悪いし
運動音痴だし
仕事も上司に怒られてばっかだし
彼女もいないし
お金もねーし

世の中不公平すぎじゃね?
良いことなんて生まれてこのかた一つもないなんて俺だけじゃね?
周りのやつは何か幸せそうだし

毎日毎日全然楽しくねー

なんて言いながら腐ってる人がある日突然変異でみんなが憧れるヒーローになることなど考えられるだろうか?

答えはNOである。

ヒーローには逆境が付き物である。
勉強ができないこと、運動ができないこと、仕事ができずに怒られること!彼女がいないこと、お金がないことなど、こんなものは逆境の内に入らない。
むしろよく聞く話である。

これらを逆境と呼ぶなら世の中逆境を乗り越えたヒーローで溢れかえってしまう。

逆境を乗り越えてヒーローになる人とは、はたから見てとても乗り越えれないような困難を乗り越えてきた人である。
とんでもない逆境を乗り越えてこそ人は賞賛する。

よくある話を自分は逆境まみれでうまくいかないと騒いでいるからいつまでたっても不平不満を撒き散らす生活から抜け出せないのである。

よくある話でいちいち騒いではいけない。
そんなものは軽く乗り越えてこそヒーローになる準備ができているのである。


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